銀座二丁目東は、昭和二十五年頃まで木挽町と呼ばれ。その後、東銀座、銀座と町名が変わりましたが、木挽(製材職人)が多く住んでいたときにより、名づけられた木挽町という名は、ここで生まれた我々にとってはたいへん愛着のある町名となっています。
バブル期の地上げによって多くの住民が町を去り、テナントビル街に姿を変え、古くからの商店は数えるほどになってしまいました。阪神大震災を契機に昼夜間人口を調査した結果、昼間人口は約五千四百人、夜間人口は約二百三十人です。夜は、最近は飲食店等もふえ、賑わいを見せるようになりつつありますが、大企業やJRA/WINS銀座で賑わう昼の喧噪に比べれば嘘のように静かです。
しかし、町会活動は婦人部、青年部を両輪として活発に行われております。特に祭礼に関しては、京橋四之部連合町会の中でも中心的役割を担っていると自負しております。
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