ご由緒について

御祭神

稚産霊神(わくむすびのかみ)豊受比売神(とようけひめのかみ)宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)

御由緒

 鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。

 それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。

 その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。

 徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。

 江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。

広重・名所江戸百景『鐵砲洲稲荷橋湊神社』について

広重・名所江戸百景『鐵砲洲稲荷橋湊神社』

 広重の時代、鐵砲洲から芝浦までが「江戸湊」と呼ばれ、京橋川が隅田川に合流する河口から南の方へ細長い洲が「鐵砲洲」と呼ばれていました。

 名呼の由来は、種子島に伝来した鐵砲に似ていたとも、徳川家が入府の際、大筒の試射場であったからとも言われています。

 府内備考には、

鐵砲洲は築地の内海寄の方なり。寛永の頃、井上、稲富両家大筒の町見を試し所なり。されど此の地は金城に遠からずとて、後に鎌倉由比ヶ濱にて稽古ありし也。それによりて、かく地名とせし。此の地は、南北凡そ八丁ありしという。(續江戸砂子)江戸鹿子名所大全に、此辺昔し洲崎なりし時の形、鐵砲に似たるより名付といへるは誤なり。

とある。